絶望の耐容量と自殺

最近でもこんな記事があったりして、話題には事欠かない自殺ですが。今回は、私の自殺に対する考察を書かせていただきます。タイトルの説明をする前に、まずは「絶望」という抽象単語の定義づけから。大辞泉さんによれば絶望とは、

ぜつ‐ぼう〔‐バウ〕【絶望】

[名](スル)希望を失うこと。全く期待できなくなること。「深い―におそわれる」「将来に―する」

との事らしいけれど、ここで私が使う意味としては、まさに文字通り「何らかの希望が絶たれる事。又は、絶たれたように感じる事」というような感じで使わせてもらいます。例えば、

  • 希望する学校に入学できなかった。
  • 希望する会社に入社できなかった。
  • 好きな女性に振られてしまった。
  • 望んだ家庭に生まれ育つ事ができなかった(と感じる)。
  • 望む自分である事ができない。
  • 望んだ行動を素直にとる事ができない。
  • 好きな仕事をする事ができなくなった。
  • 好きな家族を養う事ができなくなった。
  • 熱狂的にファンである有名人が死んでしまった。

などなど。形は違えど、どれも「自分が望む(思い焦がれる)Aという状況があったけれど、そのAという状況への道が閉ざされてしまった(ように思える)」事象であると推測する。


前置きが長くなってしまったけれど、話をタイトルの「絶望の耐容量と自殺」のほうに移します。


私は、自殺とは「絶望が容量オーバーしてしまった結果」起こるものだと考えている。例えば「絶望を受け止める為のビーカー」があると想像してみてください。そのビーカーは各人が持参していて、皆それぞれの絶望を自分のビーカーに蓄積していく。そのビーカーの容量は様々で、10mℓの方もいれば1000ℓの方もいる。


例えば、1ℓのビーカーを持っている人の場合。

  1. 希望する大学に入学する事ができなかった→絶望100ml
  2. 希望する会社に入社する事ができなかった→絶望150ml
  3. 結婚前提に付き合っていた大好きな彼女に激しく振られた→絶望250ml
  4. 親友が自殺した→絶望200ml
  5. 大事な両親が交通事故で死亡した→絶望300ml

(上記の例について。本当は、絶望ってのはもっと小さな事もコツコツと含まれると思うのだけれど、それを勘定していたらいくら書いてもキリがなくなってしまうので、省略してあります)


以上で1ℓです。この満杯の状態に、さらに負荷がかかると(例えば、勤めていた会社が倒産した→絶望50ml)耐えきれず絶望がビーカーから溢れ出してしまう。そうなった時、絶望にも耐えきれず自殺してしまう。だから、何かの苦を理由に自殺してしまった人がいたとしても、それは「その苦だけが原因」なのではなくて、「その苦によってビーカーから絶望が溢れ出してしまった」事が根本的な原因なのだ。「会社をリストラされたこと」や「男女関係のもつれ」や「受験失敗」などは自殺の大きな原因になりがちだけれど、それらは一般的に絶望度が高く、一気にビーカーを満たしてしまうだけの威力を持っているから。


もう何年も前から、高齢者の自殺が大きく取り沙汰されるようになってきた。高齢者の自殺は、大概において特別な理由があるわけではない。しかし想像するに、年寄りというのは、毎日が絶望の連続ではなかろうか。例えば、自分が思うように機敏に動く事ができなかったり、思うように風邪が治らなかったり、鏡を見ればシワが増えて肌のハリがなくなった自分がいたりする。これらは、上記でも挙げたけれど「望む自分である事ができない」に繋がってくる。毎日毎日そんな自分を目の当たりにする事によって、少ないながらも徐々にビーカーに絶望が蓄積されていく。そしてある時、ふとしたきっかけ(例えば、堅い煎餅を食べる事ができなかったとか)でビーカーが溢れてしまう。そんな感じなのではなかろうか。


長くなってしまったので、本題にしようと思っていた「うつ病や各種神経症においての、絶望の耐容量と自殺」については次回にします(二、三日後には書きます)。


そうそう、絶望といえば「さよなら絶望先生」ですよね(何がですよねなんだか)。かってに改蔵も大好きだったけれど、こちらも大好きです。

さよなら絶望先生(4) (講談社コミックス)

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